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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)
宮廷テノール歌手の父ヨハンと母マリア・マグダレナの子として神聖ローマ帝国(現在のドイツ)のボンで生まれたベートーヴェン(1770年12月16日(洗礼を受けたのが12月17日であるので、当時の習慣から、洗礼の前日が誕生日と推定された) - 1827年3月26日)は、古典派音楽からロマン派音楽にかけて活躍したドイツの作曲家で、音楽家として最高の「楽聖」の称号が与えられています。
ベートーヴェンは、幼いころから酒乱気味の父親から、第二のモーツァルトにしようと強制的な音楽の教育を受けていましたが、反抗せず音楽の道を進みます。
そして、作曲家のクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事し、才能を発揮。
1787年17歳のベートーヴェンは、訪問先のウィーンでモーツァルトに出会い、その際モーツァルトは、即興演奏したベートーヴェンのあまりの上手さに「この青年は立派な音楽家になるに違いない」と予言したといいます。
ベートーヴェンはウィーン訪問中に、病中の母の急変の知らせを受け、一時ボンに帰国。
1792年22歳のベートーヴェンは、ボンの選帝侯から奨学金を受け、音楽を学びに再びウィーンへ旅立ちます。
ウィーンに到着したベートーヴェンを待受けていたのは、憧れの師モーツァルトの死でした。
モーツァルトが既に亡くなっていたため、モーツァルトから音楽の師事を受けることができなくなったベートーヴェンは、ハイドンやモーツァルトの毒殺説に登場したアントニオ・サリエリ(1750-1825)などの有名な音楽家に師事しながら、ついにはピアノ演奏家として社交界デビューを果たします。
しかし、ベートーヴェンは27歳の頃から持病の難聴が悪化し、31歳のとき、ついには自殺を決心して遺書をしたためますが思いとどまり再起を図りました。
ベートーヴェンの死後に発見されたその遺書の内容は文学的にも高く評価されており、「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれています。
ベートーヴェンの難聴の原因は、耳硬化症、神経性難聴、梅毒、あるいは幼少期に父親から受けたスパルタ教育によって耳を強く叩かれたことなどの諸説がありますが、近年ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されたことから原因が判明。
ベートーヴェンは、ワインが大好物であり、腹痛を紛らわす目的もあってワインを常飲していました。
さらに、当時のワインには鉛を含んだ甘味料が加えられていたため、ワインの常飲による鉛の過剰摂取により鉛中毒になり、それが原因で慢性的な腹痛・下痢や難聴を引き起こしたと考えられています。
ピアノ演奏家としての道を諦め、作曲家として再起を図ったベートーヴェンは、1804年34歳のときに交響曲「第3番変ホ長調(英雄)」を発表します。
ナポレオンに傾倒していたベートーヴェンは、将軍を称える交響曲として「英雄」を作曲しましたが、ナポレオンが皇帝になってしまったため、せっかく作曲した交響曲「英雄」をナポレオンに献呈せず、理想主義を貫きました。
その際、「彼もまた、俗物であったか」と激怒し、作曲したばかりの楽譜をばらばらに引きちぎってしまったという逸話は有名です。
1807年には交響曲「第5番ハ短調(運命)」を、翌年の1808年には交響曲「第6番ヘ長調(田園)」を発表し、既に発表済みの交響曲「第3番変ホ長調(英雄)」の3曲の交響曲でベートーヴェンは、古典派の音楽をロマン派へと導いています。
晩年のベートーヴェンは、1823年に「荘厳ミサ曲」、1824年に交響曲「第9番ニ短調(合唱)」を完成。
1826年、ベートーヴェンは、肝臓病を患ってしまいますが、社会的にも信用が篤かったためシューベルトをはじめ多くの音楽家や友人たちが見舞いに訪れました。
しかし、快方に向かうことなく、翌年1827年ベートーヴェンは56歳で、その波瀾に満ちた生涯を閉じています。
なお、ベートーヴェンが亡くなった時には、ウィーン中の学校が休校になるなど、ウィーン市をあげて哀しみに沈み、葬儀にはのべ3万人もの人々が駆けつけたといいます。
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