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長編交響曲で有名な後期ロマン派アントン・ブルックナーの生涯・作風・代表曲


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アントン・ブルックナーの生涯

アントン・ブルックナー(Anton Josef Bruckner)

オーストリアのアンスフェルデンで小学校長をしていた父の子として生まれたアントン・ブルックナー(1824年9月4日 - 1896年10月11日) は、オーストリアの作曲家兼オルガン奏者で、長編の交響曲を作曲。

なお、ブルックナーの交響曲は、当時は理解されずに悪評を受けましたが、近年になってようやく再評価されるようになりました。

ブルックナーは、幼い頃父と死別しますが、聖フロリアン修道院の少年聖歌隊に入り、オルガンなどを学びます。

後に小学校教員になったブルックナーは、ウィーンでジーモン・ゼヒターに和声法と対位法を学び、1855年にリンツ大聖堂のオルガニストになりました。

1864年ブルックナーは、ワーグナーの「タンホイザー」に強い感銘を受けて「ニ短調ミサ曲」を作曲します。

その後ブルックナーは、ますますワーグナーに傾倒して行きますが、実は、後期ロマン派の保守派に属するブルックナーが崇拝したワーグナーは、同じ後期ロマン派でも急進派に属する作曲家でした。
つまりブルックナーは、自身の崇拝する作曲家ワーグナーとは正反対の音楽を作っていたといえます。

しかし、ワーグナーの影響を受けたブルックナーの重々しい音楽は当時の人々に受け入れられませんでした。
もちろんブルックナーの音楽の根底に流れるワーグナー感は、ブルックナー派とワーグナー派の確執をも呼び起こします。

やがてブルックナーは、1868年にウィーン音楽院教授となり、オルガニストとしてヨーロッパで活躍しながら、長編の交響曲をはじめ、いくつかの宗教曲を作曲しますが、1896年10月11日、ウィーンで72年の生涯を閉じました。

アントン・ブルックナーの作風

ブルックナーの作曲する音楽は、急進派ワーグナーを崇拝しながらも、保守的であり古典派的な作風になっています。

そして、ブルックナーの交響曲の多くは、1楽章が古典派の曲の1曲にも相当するほど長いことが特徴です。

アントン・ブルックナーの代表曲

ブルックナーの代表曲としてあげられるのは、なんといっても交響曲で、交響曲第四番変ホ長調「ロマンティック」、ライプチッヒのゲヴァントハウスでの初演で大成功を収めた第七番イ長調などがあります。

交響曲
・交響曲第1番ハ短調(1866年作)
・交響曲第2番ハ短調(1873年作)
・交響曲第3番ニ短調(1873年作)
・交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
  1881年、ハンス・リヒター指揮により大成功を収めた。
・交響曲第5番変ロ長調(1876年作)
・交響曲第6番イ長調(1879〜81年作)
  近年、ヨーロッパにおいて演奏されている曲で、ブルックナーの交響曲にしては演奏時間が1時間未満と短い。
・交響曲第7番ホ長調(1881〜1883年作)
  1884年ニキシュ指揮で、ライプチッヒのゲヴァントハウスでの初演で大成功を収めた。
・交響曲第8番ハ短調(1884年〜1887年作)
・交響曲第9番ニ短調(未完)
  ブルックナー最後の作品で3楽章まで完成している。

ミサ曲
・ニ短調ミサ曲

モテット
・「アヴェ・マリア」
・「これこそ大祭司なり」
・「この場所は神が作り給いぬ」
・「エサイの枝は芽を出し」
・「王の御旗は翻る」

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