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フレデリック・フランソワ・ショパン(Frederic Francois Chopin)
ポーランドのワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラでフランス人の父ニコラスとポーランド貴族の母ユスティナの間に生まれたフレデリック・フランソワ・ショパン(1810年3月1日(2月22日、1809年3月1日説あり) - 1849年10月17日)は前期ロマン派音楽を代表する作曲家であり、ピアノの詩人と呼ばれるほど繊細な調べを奏でる類まれなピアニスト。
わずか4歳からピアノをはじめたショパンは、1817年7歳で音楽家アダルベルト・ジヴニーから正式にピアノを学び、ます。
1818年8歳の時ショパンは、初めての作品「ボロネーズ」を出版。
更にショパンは、ワルシャワの公演でギロヴェッツのピアノ協奏曲やバッハを演奏し、第二のモーツァルトと賞賛されました。
1822年12歳のショパンは、ワルシャワ音楽院の院長ヨゼフ・エルスナーについて作曲を学びます。
エルスナーはショパンの才能を認め、ショパンが型にはまった音楽家にならないように、独創性を発揮させるような指導を行ったため、ショパンはピアニストとしてだけではなく類まれな天才となりました。
1826年(16歳)ショパンは、ワルシャワ音楽院に入学するも、エルスナーからの教育を継続。
ショパンは1828年(18歳)にベルリンを訪問し、フンメルやパガニーニの演奏に魅了されます。
翌年の1829年(19歳)ショパンは、ワルシャワ音楽院を首席で卒業し、ピアニスト兼作曲家として自作自演の公演を行うため音楽の都ウィーンを訪問。
ショパンのこの演奏会は、専門家から高い評価を得ました。
同年ショパンは、同じ音楽院のコンスタンツァに初恋をします。
1830年(20歳)ついにショパンは、自分の才能に自信を持ち、パリで生計を立てるため、故郷ポーランドに永遠の別れを告げました。
ショパンの旅立ちに際し開催された告別演奏会では、ピアノ協奏曲ホ短調をショパンが演奏し、コンスタンツァが独唱。
パリに向かう途中ショパンは、ワルシャワ陥落の報せを聞き、「革命のエチュード」を作曲します。
1831年(21歳)パリに到着したショパンは、多くの音楽家と交流を持つと共に、やがてピアノ教師として自活できるようになりました。
翌1832年(22歳)ショパンは、パリで開催した第一回目の演奏会で大成功を収め、ショパンより1歳年下で当時パリで活躍していたリストさえも、ショパンの才能に驚いたほどです。
これをきっかけに上流社会に足を踏み入れたショパンは、名門ロスチャイルド家の庇護を受け、パリ中のサロンで大人気を博します。
1835年(25歳)ドイツ旅行中のショパンは、両親に会うためチェコのカールスバード温泉を訪問。
その帰途ショパンは、旧友のポーランド貴族マリア・ヴォジンスキとドレスデンで再会し、恋に落ちます。
この時ショパンは「別れのワルツ」を作曲しています。
翌1836年(26歳)でショパンは、マリアに求婚しますが、マリアの父伯爵に反対され失恋。
この頃ショパンは、リストの紹介でマリ・ダグー伯爵夫人(リストの愛人)のサロンで、男装で煙草を好み男性遍歴の多い女流文学者ジョルジュ・サンドと知り合い10年に渡り交際を続けます。
ショパンは1838年(28歳)には、この6歳年下のサンドと同棲生活に入り、ショパンの健康が害すると、静養のためマジョルカ島に滞在しますが、降り続く雨のため家の中は湿気が多く、肺結核を患っていたショパンには堪える生活となってしまったため、ほどなくマルセイユに戻ることになりました。
1839年(29歳)ショパンは、冬はパリで、夏はサンドの別荘のノアンで生活するようになり、1847年ショパン36歳まで続きます。
なおその間にショパンは、「24の前奏曲集」、「幻想曲」、「バラード第4番」、ポロネーズ第6番変イ長調「英雄ポロネーズ」、「舟歌」等数多くの傑作を作曲しました。
1847年(36歳)ジョルジュ・サンドと別れたショパンは、翌1848年2月パリで最後の演奏会を開催しますが、パリで2月革命が起こったためスコットランドの富豪の娘でショパンの生徒でもあったジェーン・スターリングの招きでイギリスのロンドンに滞在することになりました。
しかし、更に健康を害してしまったショパンは、同年11月パリに戻りますが、病が回復することなく翌1839年プラス・ヴァントームの家で39歳の生涯を閉じ、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。
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