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クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy)
フランスのサン・ジェルマン=アン=レーで雑貨商の子として生まれたクロード・アシル・ドビュッシー(1862年8月22日 - 1918年3月25日)は、従来の音楽とはまったく異なる音楽技法を採り入れた印象派を代表する近代音楽時代の作曲家。
ドビュッシーは、1871年から3年間、かつてショパンの門下生だったモーテ・ド・フルールヴィユ夫人(詩人ヴェルレーヌの義母)からピアノのレッスンを受けました。
1872年パリ国立音楽院に入学したドビュッシーは、在籍中にピアノをマルモンテル(1816-1898)、ソルフェージュをラヴィニャック(1846-1916)、和声学をデュラン(1830-1909)、作曲法をギロー(1837-1892)に師事します。
1884年、カンタータ「放蕩息子」でローマ大賞に応募したドビュッシーは、見事ローマ大賞を受賞しました。
受賞の権利として、3年間のローマ留学が与えられたためドビュッシーは、1885年ローマに出発しましたが、イタリアでの生活に馴染めず、留学期間1年を残した1887年に帰国してしまいます。
パリ帰国後も生活に困窮していたドビュッシーは、マルモンテルの推薦により、チャイコフスキーの資金援助をしていたフォン・メック夫人の子供の家庭教師を務めました。
その後ドビュッシーは、若い芸術家と交流を持ち、自身の音楽思想に影響を受け、ワーグナーに傾倒します。
1888年と1889年の2度、バイロイトを訪問したドビュッシーは、ワーグナーの音楽に接しているうちに、ワーグナーの音楽が表現過度で、導旋律が不合理であると考えるようになりました。
さらにムソルグスキーの音楽に接したドビュッシーは、ムソルグスキー作「ボリス・ゴドノフ」に感激します。
そして1889年のパリ万国博覧会で接した東洋音楽に感動したドビュッシーは、ついにワーグナーの音楽と決別し、新しい音楽を模索し始めました。
ドビュッシーは1893年に「弦楽四重奏曲ト短調」を、翌1894年にマラメルの詩による「牧神の午後への前奏曲」を完成させ、印象派音楽作曲家として出発します。
なお、「牧神の午後への前奏曲」は、初演では作詩者マラメルの絶賛を浴びました。
1899年ドビュッシーはドレスメーカーのロザリー・リリー・テクシエと結婚し、1902年、20世紀最大の傑作と言われるメーテルリンク作の歌劇「ペレアスとメリザンド」を完成させます。
そしてドビュッシーは、翌1903年に、フランス政府から「レジオン・ドヌール勲章」を授与されました。
1904年ドビュッシーは妻リリーと離婚し、銀行家の妻であったエマと恋に落ち、翌1905年エマと結婚します。
そして、エマとの間に娘(クロード=エマ)も誕生し、その喜びを表現して「子供の領分」を作曲。
同1905年ドビュッシーは3部作である管弦楽曲「海」、「映像」を作曲しました。
その後も、ドビュッシーは管弦楽曲をはじめとするピアノ曲や合唱曲、歌曲などを作曲しますが、1909年頃から癌が発症。
さらに1914年の第一次世界大戦での心労もたたり、ついにドビュッシーは1918年パリでその生涯を閉じました。
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