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アントニン・レオポルド・ドヴォルザーク (Antonin Leopold Dvorak) (Dvořák Antonín)
ボヘミア北部(現在のチェコ)のネラホゼヴェスで肉屋兼旅館の息子として生まれたアントニン・レオポルド・ドヴォルザーク(1841年9月8日- 1904年5月1日)は、ボヘミアが生んだ最大の作曲家。
小学校でヴァイオリンなどを学んだドヴォルザークは、楽才を現し、教会などで演奏するようなります。
1857年16歳でドヴォルザークは、プラハの音楽学校に入学し、オルガンや作曲を学びました。
卒業後ドヴォルザークは、チェコ国民劇場の楽員となり、スメタナの影響を受けながら国民音楽運動にたずさわります。
民族主義の高まりのなか1873年ドヴォルザークは、民族主義的要素溢れる曲「白山の後継者たち」を発表することにより、プラハで音楽家として有名になりました。
翌1874年ドヴォルザークは、プラハの聖ヴォイチェフ教会のオルガニストとなり、かつて音楽教師をしていた姉妹の妹であるアンナ・チェルマコヴァと結婚しました。
なお、ドヴォルザークは、音楽教師をしていた時、姉のヨゼフィーナに失恋しています。
1984年スメタナが亡くなり、チェコ音楽界をリードする立場となったドヴォルザークは、1986年までに9回のロンドン訪問やニューヨーク・ナショナル音楽院創始者サーバー女史に招かれ渡米し、多忙な日々を送りました。
その間ドヴォルザークは、アメリカ・インディアンの民謡にチェコ民謡との類似性を感じ、交響曲第九番ホ短調「新世界より」や弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」などを作曲し、大成功を収めます。
1895年チェコに帰国したドヴォルザークは、1901年プラハ音楽院院長に就任。
さらにドヴォルザークは、オーストリア国会の終身上院議員にも推挙され、1904年最後の作となるオペラ「アルミダ」を発表。
「アルミダ」初演後、風邪をこじらせたドヴォルザークは、肺塞栓を併発し、1904年5月1日亡くなりました。
なお、ドヴォルザークの葬儀は、国葬で執り行われています。
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ドヴォルザークは、ドイツ・ロマン派の影響を強く受けています。
特に、ブラームスやベルリオーズの影響を受け、民族的要素の強い曲を作っています。
「白山の後継者たち」でドヴォルザークの地位が固まり、交響曲「新世界より」や弦楽四重奏曲「アメリカ」などの発表で世界的な音楽家として有名になりました。
ドヴォルザークはオペラを11作品書き上げていますが、チェコ語ということもあり、台本自体が優れていないため高い評価を得られませんでした。
しかし、10作目の「ルカルサ」のみは国際的に高い評価を得ています。
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ドヴォルザークの作品には作品番号のないものや、作曲順になっていないものがあるため、「B番号」と呼ばれる(「B.」で略記)ブルグハウザーの整理番号が併記されています。
▼交響曲
・「第1番 ハ短調」 op.3, B.9
・「第2番 変ロ長調」 op.4, B.12
・「第3番 変ホ長調」 op.10, B.34
・「第4番 ニ短調」 op.13, B.41
・「第5番 ヘ長調」 op.76, B.54
・「第6番 ニ長調」 op.60, B.112
・「第7番 ニ短調」 op.70, B.141
・「第8番 ト長調」 op.88, B.163
・「第9番 ホ短調(新世界より)」 op.95, B.178
▼序曲
・「自然の中で」op.91, B.168
・「謝肉祭」op.92, B.169 ドヴォルザークの序曲中最も演奏の機会が多い作品。
・「オセロ」op.93, B.170
▼交響詩
・「水の精」 op.107, B.195
・「真昼の魔女」 op.108, B.196
・「金の紡ぎ車」 op.品109, B.197
・「野ばと」 op.110, B.198
▼協奏曲
・「ピアノ協奏曲 ト短調」 op.33、B.63
・「ヴァイオリン協奏曲 イ短調」 op.53, B.108 ドヴォルザークの協奏曲として特に有名で演奏機会が多い。
・「チェロ協奏曲 ロ短調」 op.104, B.191 古今のチェロ協奏曲中最も親しまれている作品。
▼室内楽曲
・「弦楽四重奏曲第12番 ヘ長調(アメリカ)」 op.96, B.179
・「ピアノ三重奏曲第3番 ヘ短調」 op.65, B. 130
・「ピアノ三重奏曲第4番 ホ短調」 op.90, B. 166
▼歌劇(全11曲)
・「王様と炭焼き」 ドヴォルザークが始めて書いたオペラ
・「ルサルカ」 ドヴォルザーク作のオペラの中で唯一国際的評価を得られた作品
▼その他
・声楽曲「スターバト・マーテル」
・賛歌「白山の後継者たち」 ドヴォルザークがプラハの音楽界で名声を得るきっかけになった作品
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