|
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)
オーストリア領ボヘミア(現在のチェコ共和国)のカリシュト村で、父ベルンハルト・マーラーと母マリー・ヘルマンの12子の2番目の子として生まれたグスタフ・マーラー(1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、ブルックナーとベートーヴェンを尊敬し、後期ロマン派においてウィーンで活躍した作曲家兼指揮者。
幼少の頃から音楽の才能に溢れたマーラーは、1875年ウィーン音楽院に入学すると指揮者としての才能も現します。
なお、ウィーン音楽院でブルックナーの講義を聴いたマーラーは、ブルックナーを師と仰ぎ、二人の交流が始まりました。
音楽院を卒業したマーラーは、1880年ハルの音楽監督、1883年カッセル王立劇場の第2指揮者、1885年プラハのドイツ劇場の第2指揮者になります。
その後もマーラーは、1886年(26歳)ライプツィヒ市立劇場の第2指揮者、1888年ブダペスト王立歌劇場の音楽監督になり、この間に「交響曲第1番ニ長調(巨人)」を作曲しました。
1891年マーラーは、ハンブルク市立歌劇場の指揮者に任命され、指揮者として成功したマーラーは、1893年「交響曲第2番ハ短調(復活)」を、1896年「交響曲第3番ニ短調」を発表。
そしてマーラーは、1898年ついに38歳でウィーン・フィルハーモニーの指揮者となりました。
1900年にマーラーは「交響曲第4番ト長調」を作曲し、1902年に画家の娘アルマ・マリア・シントラーと結婚。
そしてマーラーは、二人の女の子を授かるが、二人とも早く亡くなってしまったことを悲しみ「亡き子をしのぶ歌」を作曲します。
1907年アメリカのメトロポリタン歌劇場に招かれたマーラーは、2楽季にわたって指揮し、同年「交響曲第8番変ホ長調(千人の交響曲)」を、翌1908年「大地の歌」を作曲しました。
1909年マーラーは、ニューヨーク・フィルハーモニック教会の指揮者となりますが、教会の女性理事と折り合いが合わず不興を買ってしまいます。
1911年、敗血症によりアメリカから戻ったマーラーは、病が回復せず5月18日51歳の生涯を閉じ、ウィーン郊外の愛する二女が眠る傍らに埋葬されました。
|