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フェリックス・メンデルスゾーン(ヤコブ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ、Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy)
ユダヤ系の富裕な銀行家の息子としてハンブルクに生まれたフェリックス・メンデルスゾーン(1809年2月3日 ハンブルク - 1847年11月4日)は、モーツァルトの再来を思わせるほどの天才作曲家であり、ドイツロマン派を代表する音楽家。
モーツァルトと同じくメンデルスゾーンもまた、38年という短い生涯でしたが、多くの作品を残しています。
メンデルスゾーンが生まれてから3年後、一家はベルリンに移住。
メンデルスゾーンは幼少の頃から、音楽のみならず文学、語学、絵画、スポーツなど多彩な趣味をもち、それぞれ秀でていました。
メンデルスゾーンは、4歳の時から母親にピアノを学んでいますが、1816年に父親と共にパリに行き、合唱団ジングアカデミーの指揮者マリー・ビゴーからピアノを学びます。
翌1817年、ベルリンに戻ったメンデルスゾーンは、ゲーテの友人チェルターから作曲を学び、1821年(12歳)メンデルスゾーンは、チェルターの紹介でワイマールに住む72歳のゲーテのもとを訪れています。
メンデルスゾーンは、1823年(14歳)に父親の管弦楽団の指揮を務め、1825年にはモーツァルトの再来といわれたほど完成度の高い「ヴィオラソナタ」を作曲。
1826年(17歳)にメンデルスゾーンは、シェイクスピアの戯曲を題材とした「夏の夜の夢」序曲を作曲、翌年の公演では大成功を収めました。
1829年(20歳)3月11日、メンデルスゾーンは、バッハ作の「マタイ受難曲」をバッハ死後初めての公演を行いました。
更にメンデルスゾーンは、10日後の3月21日バッハの誕生日にも第二回目の公演を行いました。
また、この年の暮れからメンデルスゾーンは、イタリア、フランス、イギリスと演奏旅行に行き、この間にショパンやリストらに会っています。
1835年(26歳)メンデルスゾーンは、ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となり、フランクフルト旅行中に知り合った牧師の娘セシール・ジャンルノーと2年後の1827年に結婚しています。
なお、ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者時の功績を称え、メンデルスゾーンはライプチッヒ大学から「音楽総指揮者」の称号を与えられています。
1841年(32歳)メンデルスゾーンは、プロシア王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の要請でベルリンに招かれベルリンの宮廷礼拝堂楽長になりました。
1843年(34歳)メンデルスゾーンは、設立資金調達に奔走してライプツィヒ音楽院を4月に開校し、ロベルト・シューマン(1810-1856)と共に作曲とピアノを教えました。
また、同年6月メンデルスゾーンは、ロンドンで「スコットランド交響曲」を指揮し、ヴィクトリア女王とアルバート殿下の信任を得ました。
1844年(35歳)メンデルスゾーンは、ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサート・マスターであるダヴィート(当時のヨーロッパ最高のヴァイオリニストのひとり)の意見を取り入れ、「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」を作曲。
メンデルスゾーンは1847年(38歳)に、ライプチッヒでオラトリオ「聖パウロ」を指揮し、ロンドン、バーミンガム、マンチェスターではオラトリオ「エリア」をそれぞれ指揮しますが、過労のため健康を害してしまいます。
同年5月メンデルスゾーンは、渡英の帰途フランクフルトで、姉ファニー・ヘンゼルの急死の報を受け精神的に落胆し、脳卒中の発作が起こります。
静養して一時体調が良くはなりましたが回復せず、11月3日脳卒中の再発作が起き、翌11月4日ライプツィヒにて38歳の短い生涯を閉じました。
なお、メンデルスゾーンの最期の言葉は「疲れたよ、ひどく疲れた」(Ich bin mude, schrecklich mude.)だったそうです。
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