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ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)
出版業者の息子としてドイツのツヴィッカウに生まれたロベルト・シューマン(1810年6月8日 - 1856年7月29日)は、前期ロマン派を代表する作曲家。
家業が出版業者ということもあり、幼い頃から文学や音楽に親しみながら過ごしたため、ロマン派の中で最も文筆に優れた音楽家でした。
バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの大作曲家でさえ先人の音楽の影響を受けていましたが、シューマンの音楽は先人の影響を受けず、独学のものでした。
幼い頃から音楽の才能があったシューマンは、7歳の頃から作曲を行い、ピアノ演奏もこなしています。
1826年(16歳)父と死別したシューマンは、1828年(18歳)母の希望により、法律を学ぶためにライプチッヒ大学に進みます。
しかしシューマンは、翌1827年にハイデルベルク大学に転校するも、相変わらず法律に身が入らず、哲学や芸術、音楽に没頭する日々を過ごし、ロマン派文学の影響を強く受けることになりました。
1830年ライプチッヒに戻ったシューマンは、音楽の道に進むことを決意しフリードリッヒ・ウィーク(1785-1873)からピアノを学びますが、無理なピアノ練習のため指を痛めてしまいます。
この出来事によりピアニストとしての道が断たれたシューマンは、王位歌劇場指揮者ハインリッヒ・ドルンに作曲を学び、作曲家の道を志します。
1831年シューマンは、初作品として「アベック変奏曲」を出版し、翌1832年には「蝶々」を発表。
更に1834年シューマンは、「新音楽雑誌」を創刊し、形式的な古い体質の音楽を排し、ロマン派音楽の開拓に務めました。
同年シューマンは、ピアノの師であるウィークの娘クララ(名ピアニストとして有名であったが、シューマンの知名度はそれほどでもなかった)と恋に落ち、二人は1837年に婚約します。
その間にシューマンは、「謝肉祭」や「交響練習曲」、「クライスレリアーナ」、「アラベスク」などのピアノ曲を発表。
しかし、名ピアニストとして有名であったクララに対してシューマンはまだ無名であったため、ウィークは二人の結婚に反対でした。
仕方なくシューマンは裁判を起こし、1840年二人は結婚します。
シューマンは、このときの幸福感を曲にした「リーダークライス」、「詩人の恋」、「女の愛と生涯」など多くの歌曲を作りました。
翌1841年シューマンは、第1交響曲「春」や室内楽曲を発表しました。
1844年、居をドレスデンに構えたシューマンでしたが、この頃から徐々に精神不安定になり、幻覚にも悩まされるようになります。
その後1850年までにシューマンは、「第2交響曲」、唯一のオペラである「ゲノフェーファ」、「第3交響曲(ライン)」など多くの室内楽曲を手がけ、デュセルドルフ管弦楽団の指揮者に任命されました。
しかし、シューマンの精神障害は回復せず、1853年には楽員との間が不和になり、指揮者を辞任しています。
そして、1854年2月27日シューマンは、ライン川に投身自殺を図りますが、救助された後、ボンのエンデ二ッヒ精神病院に収容され、2年後の1856年7月29日に46歳の生涯を閉じました。
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